そして、石津謙介は石津商店の設立から3ヶ月後に「有限会社ヴァンヂャケット」を設立し、ファッションブランド「VAN」が誕生するのである。 大川兄弟の兄・大川正雄が経営する洋品問屋「大川洋行」は、小さな洋品店で、弟・大川照雄がナンバー2になり、石津謙介はいきなりナンバー3として営業部長を任された。 謙介はVANでモードやファッションをやろうとしていたのではなくて、日本人が世界基準の洋服が着られるようにしたい。 確かにトレンド面ではヒッピー文化がより成熟し、ヘビーデュティーなどアウトドアアイテムを中心としたファッションが流行し、さらにはコム デ ギャルソンやヨウジヤマモトなど、それまでメンズ服では、ほとんど存在していなかったデザイナーズブランドが誕生し流行し出します。
もっとファスナー仕様なので貴重品の収納に便利です。 当時の石津は 札付きの不良とされていましたが、昌子も地元では 不良少女とされていました。 ヴァンヂャケットは、大量の在庫を抱えていた。 僕らの世代は、まさにアイビーファッションに夢中だったこともあり、本場のアイビーリーガをダイレクトに伝えたいということで、この写真集をくろすとしゆき、長谷川元らと作ることになります。 今で言う若者たちが渋谷、原宿に集まるのと同じですよね。 紙問屋「郡屋」は代々、男子に恵まれず、養子をもって継いでおり、3代目の父・石津定三も養子である。
もっと同じように当時ズックと呼ばれていた運動用の靴をスニーカーと名付けて、それまでは革靴しか街で履いていなかったのですが、運動靴を概念を変えて紹介する。 そこで、天津でオブライエン中尉から聞いた、そしてその後アメリカのファッション誌からインスパイアされたアイビーを打ち出すのです。 日本に持ってきても高額になるし、規制もされていたので輸入が難しい時代だったのです。 そして、石津謙介は「いつ・どこで・何を着る?」を出版した。 つまり文化として日常の生活に密着した風俗を広めることをコンセプトとしていました。
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